産業医活動の実際
産業保健情報誌「産業保健こうち」2009.1月号より
産業医学担当相談員 菅沼 成文
はじめに
「産業医」という言葉は、長く使われてきた労働衛生と比べてとおりが悪いかもしれない。昭和47年に労働安全衛生法で産業医が規定されるまでは「医師である衛生管理者」が労働衛生を支えてきた。この時代の産業医は重工業の製造現場や鉱業、林業といった現場を主な活躍の場としており、じん肺、振動病、化学物質による健康障害などさまざまな古典的職業病を対象疾患としていた。米国職業環境医学会は、重工業をはじめとする旧来型の産業での安全衛生を象徴する労働衛生(Industrial Health)に対し、オフィスワーク、IT時代に対応するさまざまな職業を含めての安全衛生を職業保健(Occupational Health)と説明している。わが国でも、第3次産業の割合の急速な増加に従い、産業保健の課題が旧来の職業病から作業関連疾患へとその軸足を移しているのは周知のとおりである。
産業医の役割は何か。わが国の産業保健で重要視される作業環境管理、作業管理、健康管理という三管理に示される「予防こそが最良の対策」という精神は、国際的にコンセンサスを得ている。スタッフの数の多い米国では、作業環境管理中心のIndustrial Hygienistと健康管理中心のOccupational Medicine Physicianの分業体制があるが、わが国の医師会認定産業医の大多数の主たる役割は健康管理ということになるだろう。いずれにしても、職場環境での有害要因を特定し、その健康影響を知り、それを避ける術を考える、そのため労働者個人の健康影響の有無と職場で働く集団での健康障害の頻度を調べ、それを予防するために必要な対策を講じることこそ、産業医の共通した役割であろう。
産業医の専門性
産業医活動を行っている医師のバックグラウンドは、それぞれ異なっている。米国においても臨床経験の多い医師の産業医学への転職と、産業医学の教育課程を経てその専門家になるケースがあり、この状況は産業医学が進んでいるといわれるフィンランドなどの北欧諸国でも大差はない。
臨床医学の経験が豊富であれば、職場での健康影響に対して広い視野から対応できる。また、衛生学・公衆衛生学の素養があれば、同じ職場の労働者が集団としてどのようなリスク要因にさらされているか、という観点から対応できる。産業医学の専門家としてはこの両面が必要であるが、必ずしもそれを一人で満たさなければならないというものでもない。自分で対応できる部分とコンサルトすべき状況とを的確に判断し、労働衛生コンサルタントや産業医学の専門家に適切にコンサルトすることがより重要である。その点、各都道府県に配置された産業保健推進センターは、その都道府県における産業保健の専門家を集めた相談機関として、その活用が期待される。また、医師会との協力の下、地域産業保健センターが設置され、特に50人未満の事業場の産業保健の向上に努力している。
産業医契約
産業医の選任義務があるのは、従業員数50人以上の事業場である。従業員数50人から999人までは非常勤の嘱託産業医でよいが、1,000人以上の従業員を抱える事業場では専属産業医を選任する必要がある。
専属産業医は常時事業場におり、部長クラスの権限を与えられていることも多い。事業場の産業保健活動全般に対して大きな発言力を持ち、新しい対策の導入や予算の獲得がしやすい反面、経営陣に対して率直な発言をしにくい立場にあるともいえる。一方、嘱託産業医は常時勤務しているわけではないので、社内の事情に通じにくい。しかし、客観的な立場で助言することができる。
小規模事業場では、産業医共同選任事業(小規模事業場産業保健活動支援助成金制度)に申し込めば、3年間産業医の選任費用を補助してもらうことができる。これを契機に、産業医選任のメリットが理解され、産業医を選任する事業場もある。
産業医活動に際しては書面において、業務内容、契約期間、報酬などの契約を取り交わすべきである。これにより、企業側と産業医側の双方でその責任と義務を明確にすることができる。産業医として会社と契約を結ぶと、労働局に産業医としての登録がなされる。事業場における健康診断の実施結果の労働局への報告などは、産業医名でなされる。したがって、実質的な産業医活動を行わずに名義のみを貸していた場合、思わぬ責任が降りかかることがある。
契約直後の事業場訪問と産業医活動
産業医契約を交わすと、初めての産業医出勤日を迎える。事業主や工場長、支店長など事業場の責任者は多忙なためすぐに会えないこともあるが、労働安全衛生法では必要に応じて産業医は事業者に対して勧告をおこなう立場にある。早い段階で責任者に会い、意見交換を行うことが重要である。
実際に産業医出勤日に応対するのは、安全衛生の担当者である衛生管理者で、多くの場合人事労務担当課の課長や主任といった人である。看護師あるいは保健師の産業看護職がいる場合は、その応対を受けることもある。わが国では、産業看護職には法的な根拠がない。ただし、衛生管理者資格を持ち、産業保健の実務に精通し、有害業務や作業内容について熟知している者も多い。嘱託産業医の立場では、事業場を病棟と見立てれば、回診の際に温度板を眺め看護記録を読んで必要な情報を入手するように、活動に必要な情報を入手する先が産業保健看護職や衛生管理者であると考えればよいだろう。
企業の産業医に対する要望は、健康診断の事後措置、健康相談、集団健康教育などの健康管理関連業務が中心であることが多い。有害業務の特殊健診項目や健診後の事後措置など慣れていないことについては、資格試験や実務を通して衛生管理に必要な知識、経験をもちその実際を熟知している衛生管理者に、適宜説明を求めるとよい。ただし、中小規模の事業場では、法の規定上必要な健診も行っていない場合もある。有害業務の拾い出しや健診の必要性の確認などから、健康管理業務を整理していく必要があることも多い。
何から手を付けるべきかは、事業場の規模、安全衛生スタッフの質と数、安全衛生対策の進み具合、安全衛生委員会の現状などにより異なるが、事業場での作業・業務の把握なくしては検討の仕様がない。まずは、できるだけ早く担当事業場の業務内容の把握に努めるべきである。そのためには、事業場のすべての部署を巡視できるよう会社側から了解をとることが必要である。
臨床医が嘱託産業医となった場合、医学の面では専門家であるが、事業場における業務については素人である。業務に起因する健康障害がありうることを考慮し、業務内容の把握が必須であることを認識して、産業医活動に当たることが必要である。
職場の巡視
最初の巡視は、むしろ見学というべきもので、この会社でどういう製品やサービスを提供しているのか、どのようなセクションがあり、業務分担をどのようにしているのか、勤務体制はどうなっているのかなどを、現場を見ながら説明を受ける。疑問に思ったことは担当者やラインの責任者に尋ねるとよい。
勿論、最初の見学から批判的なことばかりを言っていては煙たがれるのが当然である。製造業の工場などでは、業務に対して担当課長や工場の責任者はプロフェッショナルとして誇りを持っている。その業務を十分に理解するところからはじめなくてはならない。これは引き続き最低月一回ずつ行っていく職場巡視で改善すべき点を指摘する際にも留意したい。また、改善すべき点を指摘すると同時に、良好な点や改善がなされた点を評価するということも忘れないようにしたい。
産業医の巡視の際の服装について、マニュアル等で白衣着用となっているところもあるが、言語道断である。最も適切な服装は現場の従業員とおなじ服装である。巡視の際に、企業側に支給するように求めたい。
巡視結果は安全衛生委員会でスライドで発表できるよう、よい点、改善が必要な点の両方についてデジタルカメラなどで撮影することが望ましい。ただし企業秘密に関わることもあるため、従業員に撮影を任すなどの配慮も必要である。また、気づいた点について従業員に尋ねておくことは重要であり、それを踏まえた指摘をすることで、安全衛生委員会での巡視結果の発表も踏み込んだ内容となる。
安全衛生委員会
50人以上の事業場では、衛生委員会(あるいは安全委員会と合同で行う安全衛生委員会)が設置され、経営者側と従業員側の代表者が職場の安全衛生に関して話し合う場がもたれている。会社の安全衛生計画もこの委員会で討議される。また、平成18年の労働安全衛生法改正で、安全衛生委員会の役割は職場の健康診断の事後措置に関する報告を受けることやメンタルヘルスケアや過重労働対策の審議が明記されるなど、ますます重要なものとなった。過重労働対策に関して時間短縮に関する委員会も、この安全衛生委員会を母体に設置してもよいとなっている。
安全衛生委員会は事業場の正式な会議として議事録が残り、ここで改善提案を出した場合、実際に改善がなされたかどうかがフォローされる。そのため、従業員の健康に関わる重大な内容はこの安全衛生委員会の決定として推進していくことが、戦略上も重要である。
喫煙対策などの会社を挙げて行うべき対策も、産業医が一度や二度の講演を行うだけで自動的に進むものではないが、会社の安全衛生計画に喫煙対策という言葉が登場し、分煙対策がわずかでも動き出せば、全面禁煙までの道のりもそう遠くはない。今話題のメンタルヘルス対策についても然りである。産業保健対策の健康管理の部分は、専門家が行うべきところもあるが、産業保健が疾病対策以前の予防活動に重点を置いていることを認識し、経営陣と従業員の双方の積極的な参加を促すことが重要である。
重要案件への取り組み
企業体は役職によって権限が大きく異なる。また、安全衛生担当者が如何に熱心であったとしても課長クラスでは10万円程度の決済がせいぜいである。これが企業の経営に関わる問題であると認識されれば、より大きな予算での対応も可能となる。小予算での地道な努力を続け信頼を勝ち取りながら、機を見て社長など事業者に提言することが重要である。
また、トップへの渉外と同時に重要なのは現場の責任者や従業員に、安全衛生の考え方を理解させ、実践させることで、地道な教育が不可欠である。その機会としても安全衛生委員会は、最適である。毎月の安全衛生委員会であり、産業保健活動の基本を噛んで含めるように継続して教育していくことが重要である。
有名なトヨタのカイゼンは、産業保健の専門家から見れば人間工学的な作業改善の経営への応用であり、現場の従業員の積極的な参加によって成り立っている。20年以上前の腰痛対策が発端であったと聞くが、これを会社の経営陣が経営リスクと判断し、積極的に取り組んだことが功を奏した。安全衛生に取り組む専門家として、「人は石垣、人は城」という理念で経営陣を説得し、経営改善にも役立つ提案をしていきたいものである。
最後に
産業医活動は有害環境に遭遇する可能性の高い労働者の集団を対象とする場合も多いが、対象の健康障害は従来の職業病にとどまらず、作業関連疾患を視野に入れる必要が出てきた。その中には、生活習慣病と重なるものもある。しかし、産業医活動の基本的な作戦は早期発見・早期治療ではなく、リスク要因の制御を重視する。そのためには、それぞれの職場での作業内容を熟知することが重要である。また、有害要因についての知識・対策を事業者や従業員と共有することが重要である。
近年、健康日本21などの健康増進施策にもかかりつけ医の役割が重要視されているが、産業保健活動においても嘱託産業医の役割が重要視されている。地域において継続的に従業員の健康状態がフォローアップされることが、本人にとってもメリットが大きい。また、医療における病診連携と同様、産業保健推進センターなどの専門相談機関の整備により、コンサルテーションもしやすくなってきている。産業医の先生方には、実際に産業保健活動に参加し、産業医活動の醍醐味を味わっていただきたい。また、臨床医として患者に接する際にも、起きている時間の半分以上を過ごしている職業歴が、意外と疾病の診断や健康増進の上で重要な意味を持つことをご理解いただきたい。